バレンタイン・デビュー

和也が居間に入ってくる。美由紀と「お帰り」「ただいま」を交わし、菜穂とも同じように挨拶を交わす。

「ただいま」私に一言。

「おう、お帰り」私も、夕刊から目を離さずに一言。

和也は、戸口に立ったまま、バッグのファスナーを開けた。

「あのさ……」

ぼそっと、不機嫌そうに言う。

「これさ……オレ、食わないから、食う?」

取り出したのは、赤いラッピングの小さな箱だった。

美由紀が、うわずった声で「なに?」と訊いた。

「よくわかんないけどさ、チョコなんじゃない?  どうでもいいけど」

来たのか。ついに、チョコが、おまえにも来たのか。

「義理?」菜穂、おまえという奴は……。

和也はあっさりと「そうだよ、店長のおばちゃんからもらったんだから」と言った。

そうか……。拍子抜けしかけたが、いや、半歩前進だ、と思い直した。いまおまえに肝心なのは実績なんだ。自信のモトなんだ。

「和也は食べないの?  せっかくもらったんだから食べればいいのに」

いやいや、そうじゃないんだ、美由紀。家族に渡すところが喜びなんだ、わかってやれ。

「最初で最後かもしれないんだから、食べればいいじゃん」菜穂、おまえは少し黙っていなさい。

だが、和也は怒らなかった。ぶっきらぼうに、「オレのはあるから、そっち、みんなで食っていいよ」と言って、そのまま自分の部屋に入ってしまった。

私と美由紀は顔を見合わせる。やったあっ、と声を出さずに快哉を叫んだ。美由紀も、無言で力強くうなずいた。ついにわが息子、バレンタイン・デビューである。

「しょーがないなあ、ほんと、親ばか」

両親を冷ややかに見ていた菜穂に、電話がかかってきた。ケータイを開いて発信者を確認した菜穂は、妙にいそいそと立ち上がり、電話に応えながら部屋を出て行った。

「開けてくれた?  そう、うん、それがわたしの気持ち……うふふっ……」

私は再び美由紀と顔を見合わせる。美由紀はどうやら菜穂の「本命」の相手を知っているらしく、おい、おい、いまの、いまの、と口をわななかせる私をなだめるように「そりゃあもう、お年頃ですから、ウチの長女も」とすまし顔で言った。

「いや、でも、まだ大学生なんだし……」

「もう大学生でしょ?」

はい、これ食べてストレス解消、と美由紀は和也がもらった義理チョコを差し出した。

コンビニでふつうに売っている、まさに義理専用の安いチョコである。サイコロの形の、なんの変哲もないチョコである。

「なあ……今日の俺、カッコ悪かったかなあ。やっぱりカッコ悪いっていうか、情けない父親だったかなあ……」

私はため息交じりにチョコに手を伸ばす。

「カッコ悪かったけど、いいんじゃない?  子どものことであたふたしちゃうのも、あと五、六年なんだから」

「うん……そうだよな……」

胃薬を服むような気分で、チョコを口に入れた。ほろ苦さと、ちょっと懐かしい甘さが、口の中と胸に広がっていった。