もうひとつの風

産経新聞大阪本社夕刊の土曜版に掲載されたオリジナル、15枚の「季節風」です。

この「もうひとつの風」には、語り手が変わっているものや、ここにはいない登場人物が、今回の単行本「季節風」に登場したりもしています。1カ月に1本、更新いたします。

せんこう花火

二丁目の『ババア文具店』には、毎年恒例のサービスがある。

ババアというのは正式な名前ではない。ほんとうは『馬場文具店』。お店にいるのがいつもおばあちゃんだから、近所の東小学校の子どもたちが、誰からともなく、いつからともなく、そう呼ぶようになったのだ。

夏休みの終わり、遊びまくって真っ黒に日焼けした子どもたちは、自転車をとばして『ババア文具店』に向かう。半ズボンやキュロットスカートのポケットには、ふだんのお小遣いよりちょっと多めのお金が入っている。お父さんやお母さんから特別にもらった、二学期の文房具を買うためのお金だ。

「おばあちゃん、ノートちょうだい」「消しゴム見せて」「ふたがマグネットの筆箱って、どんなのがあるの?」……同じような光景が毎年繰り返される。

そんな子どもたちを、店番のおばあちゃんはいつもにこにこ微笑んで見つめる。そして、買った文房具を袋に入れるとき、夏休みが終わるこの時期だけのプレゼントも、そっと一緒に入れてくれるのだ。

プレゼントといっても、たいしたものではない。むしろ、オマケのほうが近い。せんこう花火「あたり」も「はずれ」もなく、こよりのような細い花火が一本だけ。

夏の間、『ババア文具店』の店先には花火が並ぶ。オマケのせんこう花火は、その売れ残りだ。来年まで取っておいても湿気(しけ)ってしまうので、処分するぐらいなら子どもたちに遊ばせてあげよう、というおばあちゃんの発案で始まり、もう二十年近くつづいている習わしだった。

最初にせんこう花火をもらった子どもたちの中には、おとなになっているひとも多い。

夏の終わりの夕暮れどき、『ババア文具店』の引き戸を開けて入ってきた若いサラリーマンもその一人だった。

                   *

「ごめんくださーい」

店に入った修司は、引き戸を後ろ手に閉めながら言った。ふだんの買い物ならそんなことはしないのに、懐かしい『ババア文具店』のたたずまいに、つい子どもの頃の習慣がよみがえってしまった。

店にいた小学生の男の子が驚いた顔でこっちを振り返る。修司は決まり悪そうに、なんでもないなんでもない、と顔の前で手を振って、シャープペンシルを選んでいた男の子とは一列ずれたノートの棚に向かった。

ひさしぶりだ。店の外も中も、昔とちっとも変わっていない。

レジの前にちょこんと座るおばあちゃんも、まだ元気だった。あの頃より確実に十数年ぶん歳をとっていたが、イヤホンでラジオを聴きながら、ほとんど居眠りしているように見えるのは、変わらない。

違いがあるとすれば、毎日夕方になると数台は停まっていた子ども用の自転車が、いまは一台しかなかった、ということぐらいだ。

棚に並ぶ商品がどれも微妙に古びているところも、昔どおり−−修司が小学生の頃から、すでに『ババア文具店』は時代遅れの店だった。マンガ雑誌の広告に出ているような新商品はほとんどないし、あっても駅前のショッピングセンターの中にある文具店より割高だった。学校の帰りにちょっと立ち寄るには便利でも、中学生になって行動範囲が広がり、持ち物の趣味にうるさくなると急に縁遠くなってしまう。

大学ノートをぱらぱらめくりながら、修司は頭の中で計算してみた。小学校を卒業するとき以来だ。『お別れ会』で交換するプレゼントのシャープペンシルを買いに来たのが最後だったから、十五年ぶりということになる。

就職してから、都心に近い街で一人暮らしを始めた。たまにこの街の実家を訪ねても、たいがい車で移動するので、かつてのご近所を歩くことはめったにない。

今日は、外回りの営業で一駅隣の街に出かけたついでだった。実家には顔を出さない。『ババア文具店』で買い物をして、オマケのせんこう花火をもらうそれだけのために、寄り道をした。

電車に揺られて仕事先に向かう途中、自転車に乗って遊んでいる子どもたちを車窓から眺めながら、そういえば夏休みの終わりは『ババア文具店』でもらうせんこう花火が楽しみだったな、と思いだしたのだ。

最近そういうことが増えていた。ふとしたときに子どもの頃の思い出がよみがえる。懐かしさに胸がキュッと締めつけられる。

疲れているのかもしれない。入社五年目。仕事にはだいぶ慣れたが、そのぶん営業ノルマや人間関係が重くのしかかるようにもなった。今年の夏は特に忙しく、それでいて成績が思うように上がらず、六月に異動してきた課長との折り合いも悪くて……子どもの頃のことを思いだしたあとは決まって、「会社辞めちゃおうかなあ」とつぶやいてしまう。

ヤバいぞ、とは思うのだ。こういうのってウツの一歩手前なんじゃないか、と週刊誌の健康記事に読みふけったりもしているのだ。

だから

仕事をすませると、会社に「今日はこのまま直帰します」と連絡を入れ、携帯電話の電源を切った。液晶画面が暗くなると、ほっとする。やっぱり、かなりヤバいかもな、とも思った。

                  *

ノートやレターセットを眺めながら、修司はときどき店内を見回した。

今日は夏休みの最終日だった。昔なら『ババア文具店』の店先には通行の邪魔になるぐらい自転車が並んでいたのだが、店内の客はさっきの男の子だけで、外に自転車が停まる気配はない。いまどきの小学生は、近所にあるからという程度の理由ではこんな古びた店には足も踏み入れないのかもしれない。

このさびれ具合だと、せんこう花火のオマケ、なくなってるかもな……。