「だいじょうぶだ」
父が言った。「もしも寒いようだったら、膝掛けも貸してくれるから」とつづける父の横で、フロアマネジャーは愛想良く笑って、アキラに言った。
「今夜はお月さまがきれいだよ」
アキラは「ほんと?」と声をはずませた。
「うん、中秋の名月は四、五日前だったけど、まだまるいから、お月さま」
「うわあっ、すげーっ」
はしゃいで笑う。
ほんとうは、その前から知っていた。さっき一人でロビーにいるとき、両親の話し合いが長引きそうだったので、外に出て、夜空を見上げたのだ。満月からほんの少し欠けた月が浮かんでいた。もちをつくウサギも、くっきりと見えた。
月にお祈りしようか。一瞬思いかけたが、そんなのいいや、と目を伏せたのだ。
両親が離婚を思いとどまることは、もう、ない。すでにその段階は過ぎていた。今夜の話し合いは、ザイサンブンヨやイシャリョウやヨウイクヒ要するにお金についての、最後の取り決めをするためのものだった。
両親は話し合いのあと、離婚届に判子を捺す。今夜は父はこのホテルに泊まり、母とアキラは自宅のマンションに帰る。父の持っていた服や本やCDは、昨日、引っ越し業者が運び出していった。父の新しい住まいは遠い街だった。そこには父の新しい奥さんになるひとがいる。明日の朝、母が区役所に離婚届を提出すれば、それで「家族」は終わる。
エントランスをぶらぶら歩いてから、ホテルの中に戻った。
父と母は、母の友人を間に挟むようにして、まだ話し合いをつづけていた。声を荒らげたり泣きだしたりはしない。静かな、淡々とした話し合いだった。
月みたいだ、と思った。太陽のようにまぶしくはなく、星のようにまたたきもせず、夜空にぽつんと浮かぶ月は、すべてが終わったあとの家族の静けさに似ていた。
*
広いテラスのいちばん奥まった席で、ハンバーグのコースを食べた。ファミリーレストランや学校の給食のハンバーグよりずっと美味しいはずなのに、味がほとんどしない。歯触りもぼろぼろとして、なにかの絞りかすを食べているような気がする。
両親の口数は少なかった。外は、やはり、寒かった。月は中庭からもよく見えた。
「お月見だなあ」
父が言った。
「きれいね」と母はうなずいて応えたが、話はそこから先へはつづかない。
食事を始めてから、ずっとそうだった。父がしゃべり、母が応える。母がしゃべり、父が応える。会話はいつも一往復だけで終わってしまう。
アキラはハンバーグの最後の一切れを頬張った。最初にスープを飲んだ。前菜の生ハムも食べた。サラダとパンとハンバーグを食べてしまうと、あとはデザートのシャーベットと紅茶でコースは終わる。「ごちそうさま」を言って席を立つと、もう、三人がそろって食卓を囲むことはないだろう。
口の中のハンバーグをゆっくりと噛みしめる。あいかわらず味はしない。歯触りもさらに乾いてしまい、ごくん、と呑み込んだときには、薬をやっとのことで服んだようにも思った。
ウエイターがハンバーグの皿を下げた。別のウエイターがデザートを持って来た。
もうすぐ終わる。
もうすぐ、家族の日々が終わってしまう。
なにかしゃべりたい。つまらないことでもいいからたくさんしゃべって、たくさん笑って、父と母の笑い声を聞きたい。
だが、そう思えば思うほど、言葉が出てこない。胸がどきどきする。オレンジのシャーベットは冷たいだけで味がしない。紅茶も、スプーンの金物っぽい味しかしない。おしっこがおなかの底に詰まっているような重苦しさがある。
パパ。
ママ。
昨日まで何度も思っていた。もしもぼくがいきなり泣き叫んで「離婚しないで!」と言ったら、パパとママはどうするだろう。ぼくのために離婚を思いとどまってくれるだろうか。洗面所の鏡の前で、泣き顔の練習をしたこともある。
だが、いま、最後の最後の時間になっても、喉がつっかえてしまって、なにもできない。
パパ。
ママ。
心の中ではずっと、叫びつづけているのに。
母、父、アキラの順でシャーベットを食べ終えた。
父は空になったコーヒーのカップを皿に戻し、ポット入りの紅茶を頼んだ母も、お代わりをする気はないのだろう、一杯目を飲んだあとはぼんやりとした顔で座っているだけだった。