夏目 小林さんのご本で、つまらないものを読んだことはありませんが、『うらなり』は本当におもしろかったですね。僕が漱石を読みなおして『孫が読む漱石』を書くようなことがなかったら、わからなかったかもしれないけど、つくづく「そうか、うらなりってこういう人なんだ」と思いました。以前はそこまで考えませんでしたから。
小林 『坊っちゃん』には、うらなりはあまり出てこないんですね。彼が登場して、多くをしゃべるということも、ほとんどない。
夏目 そうですね。『うらなり』を読み終えてから、あらためて『坊っちゃん』を読んだら、うらなりの台詞はほとんどない。たいした行動もしてない。にもかかわらず、キャラクターとしては非常にはっきり印象づけられますよね。
小林 はっきりしています。実はぼくはもっと出てくるはずだと思っていた。それが全然出てこない。たとえば、坊っちゃんがいきなり荷物を持ってうらなり先生を訪ねてきて、この近所に下宿屋はないかと言う。あの場面は坊っちゃんの振る舞いがおもしろいのであって、うらなりにしてみれば、おもしろくもおかしくもない。ただ迷惑なだけです。そうすると、うらなりは気を悪くしているのかも知れないんだけど、あまり怒ってもいない。そもそも喜怒哀楽がほとんどない。で、赴任が決まって最後の送別会では、坊っちゃんがもう帰ろうと持ちかけると、「いや、私の会ですから帰りません」て、我慢しているでしょ。
夏目 そのときに、うらなりがどういうつもりで「いや、私の会ですから」と言っているのか、連れ帰ることも、彼にとっては迷惑だろうということまでわかってしまいます。つまり、書かれていなくて、存在は凹んでいるのに、わかっちゃうんですね。そこがすごい。でも、坊っちゃんがうらなりになぜここまで好意を持ったのか、『坊っちゃん』を読んだときには、よくわからなかったなと思ったんです。小説的な仕組みだろうと、漠然と読み飛ばしていたんですね。視点を変えることによって気づいたことのひとつですけれども。
『坊っちゃん』とは別の視点で
小林 一九七〇年代の半ばぐらいでしたが、ぼくは相対的にものを見る傾向があるので、違う角度から見たらこれは違う物語になるんじゃないかと思った。その頃、ある対談相手にその着想を披露したら、相手がびっくりして、「よくそんなこと思いつきますね」と言ったのを覚えています。でも、なんだかんだと忙しかったこともあったし、文芸誌も今とは違っていたし、いろいろ難しい問題があって、いったんはやめたんです。
ただ、どこかにノートしておいた。ところが、今回、とりかかろうとしたら、そのノートが見つからない。もう全部ゼロからやりなおしです。まず、岩波と新潮の文庫で『坊っちゃん』を丹念に読み返して、たくさん付箋をつけて。「坊っちゃんはこう考えているけれども、事件は実際はこういうふうに進んでいる」というようなメモをつくる。
それで始めてみたら、うらなりは漱石の小説では、途中でスッと消えちゃうんですよね。ぼくの『うらなり』は四百字詰めでちょうど百八十枚ですけど、九十枚目のちょっと前でいなくなっちゃう。
で、よく読むと、『坊っちゃん』でいちばん盛り上がるのは、料亭での送別会でしょう。「もしうまく自然に大尾に至れば名作然らずんば失敗こヽが肝心の急所ですからしばらく待つて頂戴」という漱石の手紙が残っています(明治三十九年三月二十三日付)。ちょうど送別会の場面を書いている頃のものです。
途中でね、ぼくも料亭のあたりで、なんか作品に妙に入り込んでしまいました。そのときにわかったわけですよ。つまり、ここへ向けて漱石も力を入れているというのがね。送別会を逆の視点から書くという作業が、ぼくもいちばん楽しかったですね。そのあとです、家内に「ちょっと普通じゃなかった」と言われた……。
夏目 具体的には、どういう状態だったんですか。
小林 家で仕事しているときは、食事に降りてくるか、書斎にいるか、ベッドに寝てラジオを聴いているかなんです。それが、『うらなり』の世界に入っちゃうと、食事もラジオもどうでもよくなっちゃう。あなたには言いにくいけど、ある瞬間、漱石先生が背後に降りてくる――そんな感じですね。ぼく自身、正直言って初めてのことでした。
で、ぼくは映画が好きだから、カメラワークを考える。坊っちゃんの視点だと、坊っちゃんが送別会場に入って行くと向こうに不思議な掛け軸があって、坊っちゃんには理解できない。そこに、うらなりが座っていて、なんだか嫌な雰囲気だ、みたいなことでしょ。ところが、うらなりから見ると、あまり気は進まないけど、とにかく自分を送る会だから出席する。そこへどうも理解できない男が入ってきて、なんだかキョロキョロしてぶつぶつ言っている。
夏目 カメラが移るわけですね。ちょっとローアングルになったりして。
小林 まったく別の視点から書いて、だけどちゃんと同じところに着地させる。
夏目 それは頭の中で、その絵が浮かんでいるということですか。
小林 ええ、浮かんでいます。要するに、同じひとつのシーンを別の視点から書くという狙いがあったんですよ。そういうことができる作品というのは、実はそんなにないわけです。シェイクスピアの『ハムレット』はできた。トム・ストッパードの『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』というのは、ローゼンクランツとギルデンスターンという、ハムレットの幼馴染の友人という、ほんの端役の二人から見たハムレットのドラマなんですよね。申し訳ないけど、『坊っちゃん』はそれができる。
夏目 小林さんが申し訳なく思うことはないと思いますけど(笑)。
小林 いやいや、漱石先生に申し訳ない。
夏目 漱石は喜ぶんじゃないでしょうか。学者があれこれ言うのは、たぶんあまり喜ばないと思うんですけど(笑)。 |