今回発表された新作長篇『聖女の救済』は、その『容疑者Xの献身』の後日談にあたる物語だ。扱われているのは中毒死事件である。真柴義孝という男性が自宅で毒物を口にして死亡した。捜査に当たる刑事の内海 薫は未亡人の真柴綾音がとった行動に違和を覚え、犯人であると直感する。だが綾音には完璧なアリバイがあった。考えあぐねた末、薫は帝都大学に湯川 学を訪ねる。物理学者の力を借りてトリックを解明するためだ。初めは捜査協力に消極的だった湯川だが、薫の熱心な態度にほだされて現場へと乗り出してくる――。
石神哲哉との闘争の後、湯川は警察捜査から手を引いていたようである。名探偵が一時的に表舞台から姿を消すというのはよくある話で、コナン・ドイルが『最後の事件』でシャーロック・ホームズを悪の天才モリアーティ教授と対決させ、ライヘンバッハの滝に転落したということにして退場させた例がもっとも有名だ。ホームズの失踪期間は十年近くに及んでファンに多大な心労を味わわせたが、幸いなことに<ガリレオ>はもっと早く戻ってきてくれた。ただ不在期間中は草薙との仲が疎遠になっていたらしく、今回の事件でも彼ではなくて新米刑事の内海 薫が湯川の助手を務めることになるのである。原作の小説よりも先にTVドラマ版や映画版で柴咲コウ演じる内海 薫に親しんでいた人には、かえってなじみやすい状況設定かもしれませんね。
こう書くと初期作品からのファンは「二人の友情にひびが入ったのか」と慌てられるかもしれないが、ご心配なく。湯川が捜査協力を引き受けた理由のうちには、この事件が草薙俊平にとっての一大事になっているから、というのも含まれているのである。ネタばらしになってしまうので詳しくは書けないが、『聖女の救済』は草薙俊平自身の事件でもあるのですね。友人のため湯川は「やれやれ」とぼやきながら重い腰を上げたわけだ。助手役が薫に代わったことの産物として、湯川が草薙に対する思いを語る場面が本書にはある。薫に「信頼しておられるんですね」と言われた湯川は「でなきゃ、何度も捜査に協力しないさ」と「白い歯を見せ」ながら答えるのだ(准教授の白い歯ですぞ、白い歯!)。なんでしょうね、この羨ましいほどの親密さは。
新しい相棒の内海 薫には直情径行ぎみのところがあるため、人を喰った性格の湯川に草薙以上に翻弄されてしまう。もっとも薫が湯川とペアを組むのは『聖女の救済』が初めてではないのである。本書に先駆けて発表された短篇「落下(おち)る」が初顔合わせの作品。長篇と同時に刊行される『ガリレオの苦悩』には、もちろんこの短篇も収録されている。二人の馴れ初めが気になる人は、併せて読んでみてください。ちなみに収録作五篇のうち、「指標(しめ)す」は書き下ろし作品だ。長篇と同時に短篇集が読めるだけではなくて、さらに一篇が雑誌未発表の新作、というのが作者の準備した二つ目のサプライズなのです。
『探偵ガリレオ』にはオカルト現象を科学の力で解明するという統一テーマがあり、続篇の『予知夢』ではさらに心霊現象の要素が強化されていた。『ガリレオの苦悩』も前二作の路線を踏襲した連作集であるが、今回は湯川自身が深く事件に関与した作品が多いという特色がある。巻頭の「落下る」は前述したように休養期間からの実質的な復帰作であるわけだし(この作品でも草薙刑事との微笑ましい場面があります。どれだけ仲がいいんだ)、続く「操縦(あやつ)る」は湯川が恩師邸を訪問しているときに起きた殺人事件の謎を解く話だ。また、「密室(とじ)る」でも湯川は旧友の経営するペンションで起きた死亡事故の真相を探っている。巻末の「攪乱(みだ)す」に至っては、犯人が湯川に個人的な遺恨を抱いている人物で、彼への面(つら)当てのために劇場型犯罪を引き起こすのだから迷惑この上ない(書き下ろし作品の「指標す」のみ湯川ゆかりの人物が出て来ないが、解決のしかたを通じて彼の科学観が問われる話であり、これも湯川自身の事件と言うことができるだろう)。題名に“苦悩”の二文字が入っているのは伊達(だて)ではないのである。
あまりにも苦悩する場面が多いためか、本書の湯川は事件を解決するたびに素(す)の表情を覗(のぞ)かせる。そこも魅力の一つである。もっとも印象的なのは「操縦る」の幕切れで見せた顔だ。昔は科学にしか興味がなかったはずなのに、いつの間に人の心がわかるようになったのかとある登場人物に問われ、彼はこう答える。「人の心も科学です。とてつもなく奥深い」と。いくつもの事件を経て、探偵ガリレオは確実に成長しているのだ。
なお、ディープなファンの方には毎回の湯川の服装に気をつけて読むことをお薦めしておきたい。初期のころは実験用の白衣姿ぐらいしか印象に残らなかった湯川だが、シリーズを追うごとにスーツ姿で登場する機会が増え、着こなしのセンスも洗練されてきているのである。『聖女の救済』ではついに、身に着けているブランドがアルマーニであることが判明した。こちらの方面でどう「成長」するのか、という点にも注目しておくといいでしょう。飲み物だけは十年一日のインスタントコーヒーで、変化の気配がないんですけどね。
(本の話2008年11月号に掲載)