女の子にモテたいから、ギターを始めるという話をよく聞く。だが僕の場合、それはギターではなく、アメリカ文学だった。
中学時代の僕には、ガールフレンドと呼べる同級生がいた。と言っても、手を握ったこともなければ、デイトすらしたことがない。仲間内で、「あの子、いいね」と言い合って生まれた“カップル”だった。
やがて卒業し、違う高校へ進学して間もない頃、僕たちは駅のホームで会う約束をした。僕はそのとき、文庫サイズの翻訳版『老人と海』を持っていった。
英語は得意科目であったが、文学少年だったわけではなかった。だが、ブレザーの制服姿の彼女が大人びて見え、「アメリカ」や「小説」をキーワードにこんな世界も知っていると、本を渡すことで僕なりに背伸びしようとした。
彼女とはそれっきり会うこともなく、本の感想も聞かずに歳月が流れた。大学三年になった僕は、人づてに彼女が短大卒業後に結婚し、子どもを生んだことを知った。
数年後、生まれ育った神戸を離れ、僕はニューヨークへと移り住んだ。
原書を読めるようになり、敬愛するアメリカ人作家たちと会い、文章にすることがいつしか仕事になった。
そして、アメリカで暮らし始めて二十二年、あの日の待ち合わせから三十年以上が経った今年の春、彼女と神戸で偶然再会した。中学時代の面影を残しつつも、彼女はふたりの二十代の娘を持つ母になっていた。
「ずっとアメリカに住んでいる」と、少し相手を驚かせようと僕は言った。ちょうど、「こんな世界も知っている」とびっくりさせるつもりで、『老人と海』を手渡したときのように。
すると向こうは中学の頃を思い出させる笑顔で、「でも、英語好きだったあなたなら、それも不思議でない」と答えた。
彼女は僕の将来を見越していたのだろうか。そのとき、ふと思った。あのときの彼女が、実は『老人と海』なんてとっくに読んだけれど、アメリカや文学への僕の興味が失われるのを心配し、それを口にしなかったのではないか、と。 |